おーるニュース

一般ニュース
  芸能・お笑い
その他の情報など配信
よければお立ち寄りください

    2021年09月


    新型コロナウイルスの世界的な流行は、人々にインターネットの便利さを実感させた。だが、文筆家の御田寺圭さんは「『ネットのつながりは現実の代わりにはならない』という声を聞くことが増えた。原因は“つながりすぎ”ではないか」という――。

    ■「不安・不満・怒り」が溢れている

    「うーん、最近はネット見なくなったなあ。現実の方が自由だから(笑)

    ――と、先日一緒に食事をしたとある知人から言われた。

    「むかしはネットの方が自由で、現実じゃ言えないことを言いあえるような空間だと思ってたんだけど、最近だと『その話はネットで言うのはまずいから、オフで会ったときに話そう』ってな具合になってきて、もうネットをやってる意味なんかないなと思うようになってきた」

    そう語る彼は、ひと昔前までSNSでもそれなりに発信していた、なおかつそれなりのフォロワー数と知名度のある人物だったが、最近では数カ月に1回程度の発信になっていた。

    彼にかぎった話ではない。「結局は現実のつながりがどれだけありがたいものなのかわかった」「ネットのつながりは現実のつながりを代替できない」といった声が、ちかごろ私の周囲でどんどん聞こえるようになってきた。皆さんの周囲でもそうではないだろうか。

    外で人と対面的に会うことが「望ましくない」「不道徳」「反社会的行為」とされたニューノーマルの時代において、人びとはやむを得ずインターネットSNSを経由したコミュニケーションを現実社会のそれの代用とした。

    だがそこで多くの人は、ネット空間は現実世界のように自由ではなく、すでに「閉塞」が広がっていたことに気づいた。右を見ても左を見ても、だれかの不安や不満や怒りが共鳴してそこら中でぶつかりあい、迂闊なことを言えば容易く炎上して「キャンセル」されてしまうような殺伐とした緊張感が、いまのインターネットには蔓延している。ようするにギスギスしているのである。

    ■ネット世界に「ローカル」な場所がなくなった

    現在のネットには「ローカル」なスペースをつくる余白がほとんどなくなってしまっている。すべては「グローバル」な空間としてシームレスにつながっているからだ。

    ありとあらゆる場所がつながりをもって「グローバルな公共空間」になってしまう現在のインターネットの世界は、「この場所、この相手となら、こういうやり取りを気兼ねなくやれるコンテクスト(不文律)がある」という前提をすべて喪失させてしまった。

    私たちが「自由」を実感できるのは、どのような場所でも野放図にふるまえるときではなくて、自分の考えや価値観のコンテクストがストレスなく共有される空間や人間関係に身をおいたときだ。だが現在のインターネットSNSには「自分のコンテクストをストレスなく共有できる余地」がない。だからこそ「自由」を感じられない。圧迫感や閉塞感を感じる。

    つねに緊張を強いられ、見ず知らずのだれかの視線に怯えながら、自分の本当に言いたいことや価値観を押し殺して、「グローバル」な規範とコンテクストに沿ったコミュニケーションだけに終始する。いまインターネットに接続していると、ただそこに「接続している」だけでなくて、そうしているうちに自分自身ならではの価値観や考えを抑圧されているような感覚や、それらを剥奪されているような感覚ばかりが蓄積してくる。

    ■インターネットは「ひとつのグローバル社会」になった

    「現実社会以上に自由にふるまえるローカルな場所」を求めて人びとはかつてネットに集まった。実際にインターネットにはたくさんの「ローカル」が担保されていた。ひと昔前に栄えた、無数のトピックごとに分かれた匿名掲示板などはその典型だ。だが、やがてネットは「ソーシャル・ネットワーク」の発明とその発展にともなって「つながりすぎた」がゆえに「ローカル」の余白はどんどん埋め立てられ、ひとつの「グローバル社会」になった。

    現実社会以上に他人とのつながりが構築され、他人の言動が可視化され、他人とコミュニケーションできる空間――。それは情報ネットワークコミュニケーション技術の進歩や進化の象徴であるとして一時は歓迎されたが、しかし人びとが大切にしていた「不文律」「自分の価値観」がそこでは一切通用しなくなった。人びとは少しずつ閉塞感を覚えるようになっていった。

    相変わらず、SNSでは人はさまざまな興味関心について話しているし、自分の意見を表明している。一見すると自由があるように見える。だが実際のところ、人びとは「グローバル」な秩序体系から逸脱しないように細心の注意を払いながら、薄氷を踏む思いを味わいながら自由に意見表明をしているだけだ。

    ……それを本当に「自由」と呼ぶべきか?

    ■自由につながりすぎたゆえに、不自由になった

    「グローバル」で「ボーダレス」なネット空間で提供される「息苦しい自由」によって、皮肉なことに現実社会のコミュニケーションは相対的に「すばらしいもの」になってしまった。

    ネットと違って現実社会のつながりには「ローカル」な余白がいまもなお保存されているからだ。かつては現実社会のローカルを息苦しいと思っていたはずなのに、いまではネットより現実の方が断然に余白があって「自由」なのだ。これほど皮肉なこともない。

    現実社会のクローズドなつながりなら「いつもなにかに怒っている人」に見つかって予期せぬトラブルに巻き込まれることもないし、自分の発言ログを掘り起こして「最新の倫理観や価値観ではそのような発言は許されない」と職を失わせようとする人もいない。

    ネットは「現実世界にはない自由な地平と自由なつながり」を切り拓いてくれるものとして人びとから期待された。だがその期待はあえなく潰えた。期待したほどの自由がなかったからではない。期待以上に自由につながりすぎたがゆえにだ。

    ■ネットを使えば使うほど、現実の快適さに気づく

    文章にすると本末転倒にしか思えず哀しいが、人びとは「本当の自由」を求めて、ネットから現実に還りつつある。

    ウィズコロナの時代における「新しい生活様式」によって、人びとは外に出られなくなった。お互いの唾液が飛散するのを恐れて対面のコミュニケーションを忌避するようになった。それにともなってネットの接続時間が長くなった。ネットで出会う人びととのつながりを現実の人間関係の代わりにしようとした。

    だが、そうすればするほど「ローカル」な余白のある空間に担保された「同質性」の快適さに気づいてしまった。「グローバル」な規範と秩序によって統合された人間同士が、いかにストレスフルで、不自由で、窮屈で、殺伐としているのかを思い知らされた。

    「グローバル」なつながりのなかに身をおくほど、学歴、年収、職業、生活習慣、行動様式、価値観、性格、認知的傾向が整えられている同質的な人びととのローカル」なコミュニティの快適性と優位性が強調されていった。「グローバル」な秩序や規範と地続きでない隔絶された場所に身をおくことで、ようやく自分らしくいられる実感と安心を得たのだ。

    ■「グローバルでボーダレスなひとつのムラ」が奪うもの 

    冒頭で述べたとおり、いま「ネットが息苦しい、現実の人間関係の方が落ち着く」という人が相次いで現れている。皆さんの周りも――あるいは皆さん自身も――そうかもしれない。それは気のせいではない。

    インターネットはかつてのように「ローカル」のコンテクストが近しい者同士が小さく集まる場所ではなく、すべての人を「グローバルでボーダレスなひとつのムラ」に押し込めるものとなってしまったからだ。

    現実社会で持っていたそれぞれの「ローカル」なコンテクストやカルチャーや価値観や行動様式や思想信条は、「グローバルでボーダレスなひとつのムラ」では厳しく検閲を受けてしばしば制約される。制約されるくらいならまだましだ。それによってときに激しい社会的制裁を受けることすらある。

    「グローバルでボーダレスなひとつのムラ」への統合事業はきわめて急速かつ暴力的なものだ。それぞれが現実世界で大切にしてきた「ローカルなコンテクストや価値観」こそが、自分が「自分らしさ」を感じるなによりの縁(よすが)であるのにもかかわらず、それらを無理やり剥奪していく。

    ■「全体主義社会」の疑似体験をしているようだ

    端的にいえば、今日のネットの息苦しさは、ネットが人びとに対して「全体主義社会がどのようなものか」を疑似的に体験させているからこそ生じている。

    現在のインターネットは、全体主義社会がじわじわと浸透する社会での暮らしがどのようなものなのかを体感させてくれるシミュレーションゲームのような状況になりつつある。10年前の私に言ったら信じてもらえないだろうが、これが現実だ。

    いま、もはや何回目かも忘れた緊急事態宣言のさなか、街に少しずつ人が戻っている。

    それは単に「ニューノーマル」の生活様式へのストレスや反動だけではないかもしれない。「ニューノーマル」の世界で、人びとのコミュニケーションの代替手段となったインターネット。そこで急拡大するグローバルでボーダレスな「ニューワールド・オーダー」への反発や疲れを少なからず含んでいるようにも思える。

    「現実はクソ、ネットこそ救い」だった世界は遠くに過ぎ去り「やっぱり現実の方がいいよね」となりつつある。

    人びとは、つながりすぎたがゆえに、お互いと手を取り合えなくなった。

    ----------

    御田寺 圭(みたてら・けい)
    文筆家・ラジオパーソナリティー
    会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』を2018年11月に刊行。Twitter@terrakei07。「白饅頭note」はこちら

    ----------

    ※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu


    (出典 news.nicovideo.jp)

    どうなんでしょうか?

    <このニュースへのネットの反応>

    【【インターネット】新型コロナウイルスの流行で人々はネットで繋がり過ぎ?(画像)】の続きを読む


    新型コロナ対策として、多くの人がマスクを着用している。しかし、それが本当にコロナ対策になっているかは疑わしい。ライター編集者の中川淳一郎さんは「密な状況でもない屋外であれば、マスクを着ける必要はない。しかしマスクを着けていないと非常識扱いされるため、無駄に着けている。そんな“忖度マスク”が続く限り、コロナ騒動は終わらないだろう」という──。

    ■幸せに生きるために必要な心構えとは

    昨年から続くコロナ騒動を通じて、つくづく「自分の頭で冷静に考えること」「たとえ多少のリスクを取ることになったとしても、最終的な判断は1人で下すこと」の重要性を実感している。

    今回は、自身がいかに快適に生きるか、そして、他人に翻弄されることなく(時には出し抜くようなことになっても)幸せに生きるためにはどうすべきなのかについて書いてみる。なお、私は本稿で昨今のコロナ騒動を主眼に置いた話をしたいわけない。あくまで人生全般に関わる「幸福に暮らしていくために持っておきたい心構え」について語る。だが、コロナ騒動を通じて「どうすれば快適に生きていけるか」について改めて思索したのも事実なので、まずはなぜ私がこのような考えに至ったかを説明したうえで、本題に入っていこう。

    ■いつまで過剰反応を続ければ気が済むのだろう

    正直、私は政府、メディア、専門家が述べる「コロナはヤバ過ぎるウイルス。大切な人を守り、自分のことも守るため、今後も徹底的に自粛をしましょう」「ワクチンを2回、いや3回接種したとしても、外出時のマスク着用はもちろんのこと、家庭内でもマスクを着けるべき」「連休中もステイホームで」といった“お願い”には違和感しかない。だから「だが断る」というスタンスをこの1年半ほど取り続けてきた。データを冷静に読み解けば「コロナはそこまでヤバ過ぎるウイルスではない」ということ、そして「人流の多さは感染拡大と関係がない」ということが明確なのだ。いつまで「怖い、ヤバい」と口にしながら、社会生活全般を滞らせておくつもりか。過剰反応も甚だしい。

    ■「合理的な人間」気取りで他人の意見に盲従しているだけ

    私がこうしたスタンス明らかにして日々SNSで発言したり、メディアに寄稿、出演したりすると、ネットでは「お前のようなヤツがいるから、いつまでもコロナ禍が収束しないのだ!」「あなたは反社会的な存在。殺人鬼です」といった言われ方をする。

    しかし、彼らからそう言われても「それはお前の考え。オレに押し付けるな。オレのなかでは、コロナはもう終わっている」「むしろお前みたいな『世間様のことを考えている』そぶりで、実は他人の目を気にしているだけの連中のほうが迷惑」「自分の頭で合理的に考えられず、他人の意見に盲従するだけの存在こそ、この騒動が終わらない元凶だ」としか思えないのである。

    結局、メディア政治家もいわゆる「空気」「世論」というものにおもねって情報発信をする。いや、一般大衆がメディア政治家に影響されているのかもしれないが、とにかくコロナ騒動においてはこの3者の思惑が見事に一致し、「ヤバいよね、怖いよね」と顔を見合わせながら1年半以上、ただコロナに恐れおののくだけの時間を送ってしまった。

    ■「コロナ“禍”」ではなく「コロナ“騒動”」

    だいたい「コロナ禍」という言葉にはかねて違和感がある。実情を正確に表現するなら「メディア禍」「コロナ対策禍」「コロナを利用したいポピュリズム政治家禍」「注目される快感を覚えて調子に乗った専門家・医クラ(医療クラスターSNS上の医療関係者)禍」とするほうが適切だろう。だから私は「コロナ禍」ではなく「コロナ騒動」と呼んでいる。

    そのトリガーを引いたのは2020年2月以降のテレビメディア、そして小池百合子東京都知事だろう。とにかく彼女は大衆煽動が上手だ。

    ステイホーム」「おうち時間」「(桜は)来年も咲くのでそれを楽しみにしていただきたい」「買い物は3日に1回」「我慢のゴールデンウィーク」「オーバーシュート」「クラスター」「ロックダウン」「三密」「今年のゴールデンウィークステイホームをお願いしたい」など、キャッチーなフレーズ意味深げな専門用語を多用して大衆に恐怖感を与え、行動制限をもたらした。2020年4月7日自治体で初となる緊急事態宣言を出したのも小池知事だ。このとき、東京は一斉にざわめき、スーパーは大行列となった。もともと「アウフヘーベン」など横文字を好んで使ってきた小池知事だが、コロナ騒動ではその傾向が強まったことに加えて、以前から卓越していたフリップ芸を何度も炸裂させ、見事に自身の存在感を高めることに成功している。

    ■人々を「動くバイキン」扱いするムードが「忖度マスク」を生む

    このコロナ騒動は、人々を「動くバイキン」「国民総バイオテロリスト」化するすさまじい騒動であるが、「私はバイキンでもテロリストでもなく、まっとうな人間である」と考えている人は、この騒動からとっとと一抜けしていい。

    その象徴はマスクである。これを着けている人間が都会では99.7%(体感値)のため、騒動がまったく終わっていないように感じるのだ。一度、田舎の漁港などに行ってみるといい。マスク率はせいぜい20%ほどである。

    現在、私は佐賀県唐津市在住だが、東京、博多、名古屋といった大都市に行くと、唐津とはまるで別世界のように感じる。私は公共交通機関や商業施設などマスク着用が要求される場では着けるが、要求されない場では一切着けない。とにかく汗かきなので、着けていると本当に汗がダラダラと流れて止まらなくなってしまうし、呼吸が苦しくなってしまうのだ。そしてなにより「他人の言うことに納得もしないまま従う、家畜のような存在」に成り下がってしまうのがイヤなのである。

    それに、都会に暮らす人々も少なからず気づいているはずだ。「密な状況でもない屋外であれば、マスクを着ける必要なんてないのでは」と。でも「常にマスクを着けていないと非常識扱いされ、断罪するような視線を向けられてしまうかもしれない」「マスクをしていない人間を見ると不快に感じる人もいるようだから、ひとまずマスクは常時着用しておくか」などと無駄に忖度して、腹落ちもしていないのにマスクを着け続けてしまう。まさに“忖度マスク”である。

    ■他人はあなたの幸福のことなど考えられない

    こうした前提を踏まえたうえで「真に納得できるまで、自分自身で考えること」の重要性について述べたいわけだが、絶対に忘れてはならない、大事な視点はコレだ。

    所詮、他人は自分のメリットのことしか考えていない。
    あなたにとっての最大のメリットとは何なのか、他人は考えることができない。

    要は「最終的に、人は自分のことしか考えられない生き物である」ということだ。どんなにキレイごとを並べたところで、これは真理であり、そう簡単には覆らない。だからこそ、人は自分の頭で最後まで考え抜くことを放棄せず、判断は自分で下さなければならないのである。これこそ、現代を生きる“自律した大人”の基本的な作法だと私は捉えている。

    ■日本人が好む「協調性」の残念さ

    政府が言うから、知事が言うから、役所が言うから、メディアが言うから、余計なことは考えず、とにかく従う――これらは、コロナ騒動以降の日本に蔓延している非常に残念な風潮だ。とはいえ、同調圧力に簡単に屈したり、何かしらの権威に付き従って思考停止したりする特性は、もともと日本人が備えていたものだった。それらは時に「協調性」「和を以て貴しとなす」などと表現を変え、むしろ美徳として褒めそやされる場面も多かった。

    協調性は、たとえば就職活動の際にも最大の武器として持ち出されてきた。2000年代中盤あたりから、学生は自分の強みとして「協調性がある」とアピールするのがブームとなっていたように感じる。

    面接やOB・OG訪問などで就活生が語る協調性エピソードは、おおむねこんなレベルだ。

    「私は所属サークルで副部長をやっていたのですが、学園祭で何をするかについて大きくもめたことがありました。出店で売るのは焼きそばがいいか、たい焼きがいいか、ということについてメンバー間で対立が起きたのです。そのとき、私は両方の意見を丁寧に聞き、それぞれの気持ちを考慮しながら議論を進め、最終的には両派が妥結する形で“トッピングや味付けを各種用意したたこ焼き屋”という解決方法を提案。それが採用され、出店は成功裏に終わりました!」

    まあ、学生にとっては渾身の武勇伝であり、一種の成功体験なのかもしれないが、この程度の逸話で協調性をアピールされても聞かされた大人は苦笑するしかない。

    ■就職活動でやたらと「たとえ話」をする学生たち

    そもそも仕事においては協調性など、あまり重要ではないのである。そりゃ、ないよりはあったほうが少しはマシかもしれないが、それよりも現場でまず重要視されるのは「結果を出す可能性が高い人間かどうか」だ。まったく誰が言い始めたのか知らないが、学生たちのあいだで「協調性をアピールすれば就活で内定が取れる」という根拠不明な神話が語られるようになり、それが蔓延しただけなのだろう。

    この「協調性アピールは面接でウケる!」という神話に加えて、「私は○○な人間です」と自分の特徴を何かにたとえる話法も就活生にたいへん流行した。私も会社員時代、面接に上げる学生を選抜するリクルーターをやったことがあるが、大多数がたとえ話をしてきた。こんな調子だ。

    「私という人間をわかりやすく表現するなら『リベロ』です。私は大学のサッカーサークルで、長らくこのポジションを務めてきました。リベロは、守備を中心としつつも、攻撃の起点にもなる重要なポジションです。私はサッカーチームにおけるリベロの経験を通じて、守備でも攻撃でも絶好機を見極められる幅広い視野を身に付けました。こうした経験は、御社(私の古巣・広告代理店博報堂)の営業という立場に就いたとき、クライアントに対しても、クリエイティブに対しても気配りが求められるような、物事を俯瞰的に見なければならない職種で非常に役立つと思います」

    いや、それじゃお前のポジションフォワードだったら、他の仕事を選ぶの? 攻撃中心だったプレイヤーは広告会社の営業に向いていないの? などとツッコミを入れたくなるような受け答えなのだが、とにかく当時は「私は納豆です」やら「自分はエアコンのような人間だと思います」などと自身を何かにたとえる学生が面談で続出した。個人的には「またかよ」「どうでもいいわ」とスルーしたいところだったのだが、それでは話が進まないので「え、どういうことですか?」と尋ねると、待ってましたとばかりに「粘りがある」「暑かろうと寒かろうと、どんな状況でも対応できる」などと程度の低い大喜利のような回答を嬉々として口にするのである。

    ■権威が言ったことに従うだけの無能

    私がリクルーターを担当したケースでは、こうした「自分は○○のような人間」と比喩で自己分析をする学生は全員落とした。おそらく、学生に人気の就活アドバイザーや人事コンサルタントあたりが著書やセミナーなどでそうした話法を「ユニークな表現で個性をアピール」「とにかく面接官の記憶に残ることが大事」などと推奨していたのだろう。だが、それを唯々諾々と受け入れ、サル真似している時点で完全に没個性である。私はそんな就活生を「権威が言ったことに従うだけの無能」だと判断した。

    いまの日本の状況も、こうした就活生の態度に似ている。人間には本来、それまでに獲得した知識や経験の蓄積に基づく「自分なりの判断基準や価値観」「野生の勘(直感)」が備わっているはずなのだ。他人の意見を参考にすることは一概に否定しないが、ただ聞き入れるのではなく、自分なりに検討し、解釈する姿勢が不可欠である。そこで「ん、何かおかしいぞ」「妙だな」「素直に承服しかねる」と思ったのであれば、臆することなく異を唱えなければならない。

    ■「野生の勘」が命運を分けることもある

    東日本大震災の際、宮城県石巻市の大川小学校では、全校児童108人のうち74人の死者・行方不明者が出た。教職員は13人中10人が亡くなった。校庭に児童を50分も待機させた後、学校にほど近い7メートル弱の高さがある堤防道路に彼らは向かったが、結果的に想定外大津波が来て多くの犠牲が出た。

    一方、裏山に逃げて助かった人もいた。裏山は土砂災害特別警戒区域や警戒区域に指定されていたため、全校での避難を躊躇したという事情はあったが、当時の教職員の判断が正しかったかどうかは後日、激しく議論された。児童たちのなかには、学校から5分で登れる裏山に逃げなければならないと直感的に判断した者もいたという。しかし、教師は裏山に逃げた児童を「危ないから戻れ」と呼び戻したそうだ。教師としては、地震による土砂崩れのほうが津波よりもリスクが高いと判断したのだろう。

    ただ、あくまで結果論になるが、裏山に逃げようと判断し、行動に移そうとした児童たちの「野生の勘」は正しかったのである。実際、堤防を乗り越えてきた大津波に児童たちの列がのみ込まれるなか、たまたま列の後方にいた児童や教師は急いで向きを変えて裏山を駆け上り、一部はギリギリで難を逃れているのだ。

    ■非常事態でとっさに判断するために

    人間は「野生の勘」と「誰が何と言おうと自分が正しいと感じるもの」を信じるほうがいい──そんな人世訓を、大川小学校の悲劇は伝えているように思えてならない。

    しかし、多くの人はさまざまな規則や社会通念に無自覚のうちにがんじがらめにされており、そこから逸脱しないよう相互監視しながら従順に生きることに何の疑問も抱いていない。怖いのは、他人から非難を浴びること。それを恐れて、自分の判断や本心を封印してしまう。平常時であれば、そうした生き方でもどうにかなるだろう。だが、いざ非常事態となったとき、とっさに判断できなかったり、正しい選択が取れなかったりするのではないか。

    たとえば、裏山に逃げようとした大川小学校の児童たちの心の動きを想像すると、このような流れになると思われる。

    ・大半の大人たちから「先生の言うことを聞きましょう」と教えられてきたし、先生が言うことは基本的に正しいはず。
    ・裏山に逃げたら、先生が「戻って来い」と言った。だから、それに従わなくてはならない。
    ・津波については自分なりに知識があるつもりだし、もし巻き込まれた場合はかなりの確率で死ぬということもわかっている。
    ・だから、少しでも高いところに逃げるほうがいいと思うのだけど、先生は裏山のほうが危険だから堤防に向かうと言っているし、それに従うしかないか。みんなもそうするみたいだし。

    ■誰かにモノ申す行為には、甚大な責任が伴う

    他人(とりわけ権威を持つとされる者)から何かを言われたら、多くの人間はこうした思考法になってしまうのである。しかしながら、誰かに何かを言う行為は、本来、甚大なる責任を伴うものなのだ。だから私は、他人に「○○しろ」などと絶対に強制しない。「会社を辞めたほうがいいか」「パートナーと別れるべきだろうか」といった人生の一大事について意見を求められた際には、あくまで慎重に、しかし嘘偽りなく自分の「感覚」を伝えるようにしている。他人に命令したり、自分の考えを押し付けたり、相手を変えようとしたりすることほど無礼なものはない。その結果、相手に起こる事柄に対して、自分は責任を負えないからだ。

    さらに私の場合、多少不遜に聞こえるかもしれないが「自分の判断こそ至高であり、正しい」という妙な自負がある。また、仮にその判断が正しくなかったとしても、決して誰かのせいにはしない、という覚悟もある。何事も、あくまで自己責任。そう強く言えるから、承服できない他人の意見には耳を傾けないし、容易に自分の主義主張を覆さないのだ。

    ■何事も自分で判断すれば、他人を責めずに済む

    私はこれまで、進学する大学や学部、勤める会社、退職の時期、その後の職業、結婚相手、そして2020年8月末をもってのセミリタイアなど、さまざまな判断を自分だけで下してきた。すべて自分で決めて、他人が何を言おうと自我を貫き通した。

    なぜ、このような思考に至ったかといえば、誰かの判断に従うと後悔するし、失敗した場合に納得できないからだ。すべてを自分で判断しているのであれば、うまくいかなかったとしても、悪いのは自分だけということになる。こうした姿勢は、他人を責めない潔い生き方にもつながる。

    なお、先述した人生の選択に関してはすべて「この判断こそが最善だった」と思っている。「失敗した判断はない」と断言できるくらい、人生は順調だ。

    ■「非常識なこと」が社会の常識になっていないか

    今年の9月12日漫画家小林よしのり氏が主催するシンポジウム「ゴー宣道場」に登壇した。「第100回ゴー宣道場in愛知(第3回東海ゴー宣道場)」と銘打たれた同イベントテーマは「常識の逆襲」。そこに私はゲストとして招かれたのだった。

    会場で展開されたのは「コロナ騒動で右往左往する社会において、常識をいかに維持するか」という議論である。登壇者も参加者も、会場に集まっているのはコロナ騒動について「これっておかしくないか?」という問題意識を持っている人々だ。これが盛り上がらないわけがない。

    我々は社会の少数派──といっても、あくまで見た目上の“少数”。内心ではコロナ騒動を「バカげている」と考えている人も多いだろうが、それを表立って言うと激しく批判されてしまうので、黙っているだけ──だからこそ、「非常識なことが社会の常識になっている」という現在の異常事態に対して、正々堂々「それはおかしい!」と声を上げ続けなければならない。壇上では、そんな思いを確認しあった。

    私は政治家や専門家たちのコロナに関する発言、そしてそれらを垂れ流すメディアのことを、もはやまったく信用していない。自分の「野生の勘」のほうが正しいと思っている。だから彼らには従わないし、このようなイベントにもはばかることなく参加する。

    ■最終的に「自分の主張が正しかった」と証明された経験

    イベントの終盤で、私は次のような発言をした。

    「私は現在、コロナ騒動においては完全に『邪教の信者、ないしは教祖』のような扱いですが、実は過去にも同様の扱いを受けており、最終的に自分の主張のほうが正しかったという成功体験をしています。

    2000年代中盤、『Web2.0』という新しい概念が注目されました。インターネットは善良な人々をつなぎ、社会をよりよくし、人間をもっと賢くしてくれる……そんな論調です。小池百合子氏が述べるようなアウフヘーベン的ヘーゲルの弁証法で“知”がより高みに到達すると考えられていました。

    そうしたユートピア論的Web2.0の流れをネット界隈の人々は礼賛し続けたわけですが、当時、すでにネットニュース編集に従事していた私には絵空事のように思えました。“ネット小作農”として日々のPV稼ぎに翻弄され、バカげた炎上への対応に明け暮れる。そうした毎日を過ごすうちに『Web2.0なんて、良心的かつ頭がいい一部の人たちのあいだだけで成立する概念じゃないのか?』『大多数のバカにとっては関係のない話では?』『頭のいい人々がウェブの優れた部分だけを切り取って意見を述べているだけだろ』と考えるようになり、『ウェブはバカと暇人のもの』という本を書きました。2009年4月のことです。

    当初、この本はそれなりに売れていたものの、ネット界隈は一様に沈黙し、書評さえ出ない状況でした。ネットの身も蓋もない現実を詳らかにした私に対して、ネットの素晴らしさを喧伝し過ぎた各種メディアや識者たちは、明確な反論ができなかったのです。

    ほどなく、さまざまな炎上騒動などを通じてネットの民度の低さが露呈し、2010年初頭あたり……発売から9カ月ほど経過してようやく、私の論が正しいことが証明された。ウェブを聖域化する論調が崩壊し、以後、私は爆発的に仕事を獲得するに至りました。

    その後も『バカッター騒動』などが起こり、私の主張はさらに確固たるものになった。コロナについても同様の自信を持っています。政治家や専門家、御用メディアよりも、私のほうが正しい」

    ■もっと自分の「野生の勘」を信じよ

    こう述べる私のことを「暴論を吐く反社会的存在」と断じるのも結構。だが、私自身はあなた方からどんなに批判されても何も感じないし、自我を通さない気持ち悪さのほうが不快なので、持論を変える気は一切ない。それどころか、すべての人が私のように振る舞えるようになればいい、とすら考えている。そのほうが、この社会はもっと幸せなものになるだろう。

    本当は忖度マスクなんて着けたくのに着け続ける──これは、ただ単に「社会の目」を気にして自分の感情を封印しているだけの行為にすぎない。とりわけ都会では、そもそもマスク着用が必要ない状況であっても忖度で着用せざるを得ないような空気が強いように思う。なんてバカバカしく、無意味な忖度だろうか。

    あなたはそんな社会が続くことを求めるのか。もっと自分の「野生の勘」を信じるべきではないか。それでも周囲の発言のほうが正しいと思うのであれば、一生誰かにコントロールされる人生を送ればいい。

    ----------

    【まとめ】今回の「俺がもっとも言いたいこと」

    コロナの蔓延以降、権威の言うことに盲従する人間ばかりになっている。データや事実関係を冷静に読み解く目を持ったうえで、もっと「自分なりの判断基準」「野生の勘(直感)」を頼りに行動してもよいのではないか。
    ・他者に判断を委ねてばかりでは、望まない結果が生じたとき、他者を責めることになる。他人は結局、どこまでいっても他人。あなたの幸福のことを第一に考え、責任を持ってくれるわけではない。何事も最終的な判断は自分で下すべきだ。
    ・忖度マスクほど無意味なものはない。周囲の目を恐れ、自分の感情にフタをし続けているかぎり、コロナ騒動は収束しない。誰かにコントロールされるだけの人生なんて、あまりに不幸ではないか。

    ----------

    ----------

    中川 淳一郎(なかがわ・じゅんいちろう)
    ライター
    1973年東京都生まれ。1997年一橋大学商学部卒業後、博報堂入社。博報堂ではCC局(現PR戦略局)に配属され、企業のPR業務に携わる。2001年に退社後、雑誌ライターや『TVブロス』編集者などを経て、2006年よりさまざまなネットニュース媒体で編集業務に従事。並行してPRプランナーとしても活躍。2020年8月31日に「セミリタイア」を宣言し、ネットニュース編集およびPRプランニングの第一線から退く。以来、著述を中心にマイペースで活動中。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットは基本、クソメディア』『電通と博報堂は何をしているのか』『恥ずかしい人たち』など多数。

    ----------

    ※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Rattankun Thongbun


    (出典 news.nicovideo.jp)

    自分の考えでマスクしてますが~

    <このニュースへのネットの反応>

    【【コロナ】中川淳一郎さん、「付度マスク」とは何ぞや(画像)】の続きを読む


    やりきれないですわ。

    1 ぐれ ★

    ※「週刊文春」編集部3時間前

     大阪府摂津市で新村桜利斗(おりと)ちゃん(3)が熱湯をかけられて殺害された事件で、殺人容疑で逮捕された無職・松原拓海容疑者(24)と交際していた母親のA子さんが、桜利斗ちゃんの死亡後、松原容疑者との「子どもがほしい」と語るなど強い“依存関係”にあったことが「週刊文春」の取材で分かった。

     桜利斗ちゃんは8月31日、自宅マンションの浴室で熱湯を浴びせ続けられた後、数時間にわたって放置され、全身やけどによる熱傷性ショックで死亡。松原容疑者は大阪府警の調べに対し、「シャワーの温度を徐々に上げて驚*遊びをしていた。湯を故意に浴びせたわけではない」と容疑を否認しているという。

     桜利斗ちゃんは9月4日、摂津市内で火葬された。その後、松原容疑者と桜利斗ちゃんの母親のA子さんは現場マンションで同居生活を再開している。

    火葬場での松原容疑者
     桜利斗ちゃんの遺骨に手を合わせるため、マンションを訪れたA子さんの知人が語る。

    「リビングのカーペットには、桜利斗ちゃんの剥がれ落ちた毛や皮膚の一部が残ったままで、遺骨はカラーボックスの上に置かれていました」

     知人に対し、A子さんはこう語ったという。

    「正直ね、こんなん言うたらオリちゃんにもよくないとは思うんですけど。も*、この人が(刑務所に)入っちゃったらほんまに私ひとりになるんですよ。いまは正直、子どもほしいと思っちゃう。お腹におるだけでも生きる気力になるかな、とか……」

     そしてこう続けた。

    「ひとりになった時に、一番って、子どもかなって思っちゃう。今もし、子どもができた場合、生きようって思えるし、絶対この子はほんまに守ろうって思えるようになるんかなとか」

    続きは↓
    https://bunshun.jp/articles/-/48998?page=1&_gl=1*pd6rq7*_ga*TkFaVklpdEZZX2JPaGhVYnp0RUlRZG1fSWlyWlBXbG5nV0ZVZXcySDdxZmFCV3dCN2RHRkJRZTJYcHVDUjFHSQ..


    【【虐待事件】桜利斗ちゃんの母親とはとても思えない言葉。(画像)】の続きを読む


    お体大丈夫でしょうか?

    11 ニューノーマルの名無しさん

    >>1
    一番老害自身が円満じゃなくて草


    【【自民党総裁選】二階幹事長、質問にキレてヒートアップ(画像)】の続きを読む


    【ギャンブル】現役パチプロ、コロナ禍で収入激減(画像)

    働いた方がいいですよ。


    コロナ禍で収入激減。現役パチプロが今の収支を赤裸々に語る
    ■パチンコ屋も大打撃だがパチプロも大打撃
    新型コロナによる大打撃を受けたパチンコ店の閉店ラッシュが止まらない。2019年末からのわずか1年間で、600店舗以上が閉店に追い込まれる事態となった。今後も多くのパチンコ店が閉店することが予想されている。

    閉店するということは、単純にお金を落としてくれる客が減ったということ。すなわち客に還元する店も減っているのだが、今もなおパチプロは数多く存在している。果たしてコロナ禍で活動するパチプロは、現在どういった状況なのだろうか。

    今回はパチプロ系ライターとして『パチンコ必勝ガイド』等で活動するトラマツ氏に、パチプロの現状について話を伺った。コロナ前と現在との収支の比較や、現在の狙い台などの話は、一般ユーザーでも立ち回りの参考になるはずだ。

    ■コロナ禍での狙い台は海物語5
    まず最近のプライベート稼働で、よく打っている台を教えてください。

    トラマツ 最近はやっぱり沖海5かな。ここ1年は海シリーズが多いね。でも名古屋に住んでいたときはそんなに海は打たなかったから、どの機種が強いかというのは地域差がある。東京にきて思ったのは、「やっぱりなんだかんだで海が強い」ということ。困ったら海を打つ日が多いかな。

    個人的には、沖海5は沖海4に比べて技術介入が少し難しい気がします……。

    トラマツ そう、だから沖海5は完全にプロ向きなんだよね。普通の人は電サポ中にめちゃめちゃ玉を減らすから、電チューで拾いやすくなっているホールもあって。だから巧いと出玉が取れてしまうから、沖海5はプロにとってはオイシイよね。ホールとし..
    【日時】2021年09月29日 08:29
    【ソース】日刊SPA!

    【【ギャンブル】現役パチプロ、コロナ禍で収入激減(画像)】の続きを読む

    このページのトップヘ