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    2021年04月


     おかんから「PC教えろ」と言われ2分で作った技能チェック表に、教える側と教えられる側双方の求めていたものと称賛の声が寄せられています。初心者に必要なものが分かりやすく詰め込まれている……!

    【画像】チェック表のダウンロード先

     この表を公開したのは、終端コウスケさん。「電子計算機習得技能確認表」と題され、「クリックダブルクリックができる」「右クリックでどんな事ができるか理解している」「ブラウザを開ける」などPCの初歩的質問が全15項目ならんでいます。

     これらの質問に対する回答のチェック欄が「はい」「いいえ」ではなく、「知っとる」「知らん」になっているのがポイント。質問の意味が分からない場合も取りあえず「知らん」にチェックを付ければ良い、分かりやすい仕様です。習得状況の確認用に、「覚えたった」の欄も用意されています。

     この表はGitHubアップロードされており、WordPDFファイルで公開中。初心者からの「PC教えて」はどの程度理解しておりどのレベルから教えればよいのかさまざまな思考が巡り緊張感あふれる瞬間ですが、この表が1枚あれば解放されそうです。

    終端コウスケさん

    あまりにも完璧な表


    (出典 news.nicovideo.jp)

    これは分かりやすい。

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    【(おかん)「PC教えろ」 と息子に言って作ってもらった技能チェック表!初心者に分かりやすい。】の続きを読む


     縄文時代に作られた土偶は、女性や妊婦をかたどったものだ、というのが多くの人の認識だろう。「そうではない」という驚きの新説を提唱したのが、人類学者の竹倉史人氏だ。では、土偶は何をかたどっているのか? その結論に至った過程と具体的な土偶の解読内容を前後編でお送りする。(JBpress

    JBpressですべての写真や図表を見る

    土偶(どぐう)とは縄文時代に作られた素焼きの人形。1万年以上前から制作が始まり、2000年前に姿を消した。現在までに2万点近い土偶が発見されている。なお、埴輪(はにわ)は、古墳にならべるための土製の焼き物。4世紀から7世紀ごろに作られたもので、土偶とは時代が異なる。

    (※)本稿は2021年4月に発行された『土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎』(竹倉史人著、晶文社)より一部抜粋・再編集したものです。

     ついに土偶の正体を解明しました。

     こういっても、多くの人は信じないだろう。というのも、明治時代に土偶研究が始まって以来、このように主張する人は星の数ほどいたからだ。そういう人たちの話を聞くと、「土偶は豊饒の象徴である妊娠女性を表しています、なぜなら……」、「土偶は目に見えない精霊の姿を表現していて……」、「縄文人は芸術家です。人体をデフォルメしたのが土偶で……」といった「俺の土偶論」が展開される。こうしたすべての「俺の土偶論」に共通して言えるのは、客観的な根拠がほとんど示されていないこと、話が抽象的すぎて土偶の具体的な造形から乖離(かいり)していること、そしてその説がせいぜい数個の土偶にしか当てはまらないということである。

     土偶研究は明治時代に始まり、そこから大正、昭和、平成、令和と、じつに130年以上の歳月が経過した。それでも「何もわからない」ままであるから、アマチュアも入り乱れて「俺の土偶論」が侃々諤々、しまいには土偶=宇宙人説まで唱えられる始末――。ということで、いまさら「土偶の正体を解明しました!」などと口にしたところで、「オオカミが来た!」という虚言のようにしか響かなくなってしまったのである。

     130年以上も研究されているのに、いまだに土偶についてほとんど何もわかっていないというのは一体どういうことなのだろうか。

    縄文人でも妊娠女性でもない

     土偶の存在は、かの邪馬台国論争と並び、日本考古学史上最大の謎といってもよいだろう。なぜ縄文人は土偶を造ったのか。どうして土偶はかくも奇妙な容貌をしているのか。いったい土偶は何に使われたのか。縄文の専門家ですら「お手上げ」なくらい、土偶の謎は越えられない壁としてわれわれの前に立ちふさがっているのである。

     その一方で、世の中は空前の「縄文ブーム」に沸いている。土偶はまさに縄文のシンボルであり、イメージキャラクターでもあるのに、その肝心の土偶の正体がわかりません、というのでは形無しというほかない。世界に向けて縄文文化の素晴らしさを発信しようにも、その中核にあり、おそらくは土偶が最も体現しているはずの「縄文の精神性」を語ることができないのであれば、それはわれわれの知の敗北を意味するであろう。

     それでいいのか。いいわけがない。

     結論から言おう。

     土偶は縄文人の姿をかたどっているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。〈植物〉の姿をかたどっているのである。それもただの植物ではない。縄文人の生命を育んでいた主要な食用植物たちが土偶のモチーフに選ばれている。ただしここで〈植物〉と表記しているのは、われわれ現代人が用いる「植物」という認知カテゴリーが、必ずしも縄文人たちのそれと一致しないからである。

     私の土偶研究が明らかにした事実は、現在の通説とは正反対のものである。

     すなわち、土偶の造形はデフォルメでも抽象的なものでもなく、きわめて具体的かつ写実性に富むものだったのである。土偶の正体はまったく隠されておらず、常にわれわれの目の前にあったのだ。

     ではなぜわれわれは一世紀以上、土偶の正体がわからなかったのか。

     それは、ある一つの事実がわれわれを幻惑したからである。すなわち、それらの〈植物〉には手と足が付いていたのである。

     じつはこれは、「植物の人体化(アンソロポモファイゼーション、anthropomorphization)と呼ばれるべき事象で、土偶に限らず、古代に製作されたフィギュアを理解するうえで極めて重要な概念である。

     たしかに土偶は文字ではない。しかしそれは無意味な粘土の人形(ひとがた)でもない。造形文法さえわかれば、土偶は読むことができるのである。つまり土偶は一つの“造形言語”であり、文字のなかった縄文時代における神話表現の一様式なのである。

     そしてそこからひらかれる道は、はるか数万年前の人類の精神史へとつながっている。私の土偶の解読結果が広く知れ渡れば、日本だけでなく、世界中の人びとがJOMONの文化に興味を寄せ、そしてDOGŪというユニークフィギュアが体現する精神性の高さに刮目(かつもく)することだろう。

    土偶は人体をデフォルメしているのか

    「土偶は何をかたどっているのか」。そしてもう一つ「土偶はどのように使用されたのか」。土偶のモチーフや用途をめぐっては諸説あるものの、いずれも客観的な根拠が乏しく、研究者のあいだでも統一的な見解が形成されていないのである。

    「それが何か」わからないなりに、土偶についての“通説”のようなものは存在している。現在の通説を大まかにまとめれば、「土偶は女性をかたどったもので、自然の豊かな恵みを祈って作られた」ということができる。そして、実際これが世間に流通する最も一般的な土偶のイメージと言ってよいだろう。

     しかし、あらためてここで実際の土偶を見て欲しい(図1)。はたしてこれが女性の姿に見えるだろうか? 見えるかどうかという主観的な印象の次元以前に、頭部や四肢こそあれ、土偶の身体はそもそも人体の形態に類似していない。つまり、土偶=女性像という説明は、われわれの直感に反するのみならず、物理的な事実にも反している。

     それにもかかわらず、この無理筋な説明が多くの教科書に採用され、通説として社会に流通しているのはなぜだろう。それは、この説が「土偶は人体をデフォルメしている」というさらなる俗説によって補完されてきたからである。

    着想は突然やってきた

     土偶は人間女性をモチーフにしつつ、それを抽象化してデフォルメしたフィギュアであるから、土偶の多様なかたちには具体的な意味はない――。これは本当だろうか? こうした“通説”は、私には途方もなくデタラメなものに感じられた。土偶のかたちには具体的な意味があり、それは決してデフォルメのようなものではなく、土偶の様式ごとにそれぞれ異なる具体的なモチーフが存在しているのではないか――これが土偶を前にした最初の私の直感であった。

     土偶研究の始まりに際して、私は新しい仲間を迎えることになった。遮光器(しゃこうき)土偶のレプリカである。私が購入したのはレプリカとはいえそれなりに再現性のあるものだった(図2)。

     さて、遮光器土偶が自宅に届いてから一週間ほどしたある日のことである。東京国立博物館ウェブページで、私はあらためて遮光器土偶の高精細の画像を眺めていた。3000年近く前、東北地方に住んでいた人びとは、粘土を採取し、それを丁寧に成形し、体表に緻密な紋様を施し、焼成し、このフィギュアを製作した。いったい何をかたどり、何の目的のために? それは答えのない、それどころか手掛かりとなるヒントすらない、途方もない謎のように感じられた。

     ハイバックチェアにもたれかかり、私はPCの画面を眺めながら何度か深呼吸をした。すると不意に、私の脳裏にある植物のイメージが浮かびあがった。それはある根茎類の映像だった。次第に鮮明になっていく輪郭を追いかけていくと、その根茎類が目の前にある遮光器土偶レプリカの手足と重なるような気がした。私はハッとして椅子から起き上がり、ウェブで画像を検索し、実際にその根茎の画像を遮光器土偶の手足に重ねてみた。すると、根茎の描く独特な紡錘形のフォルムは、土偶の四肢とぴったりと重なったのである。

     この時、私は探していた“何か”が自分の目の前に現れたと感じた。すなわち、この根茎こそが、遮光器土偶がかたどっているモチーフなのではないか、という着想を得たのである。

    ほぼすべての文化で見られる植物霊祭祀

     私はある一冊の書物のことを思い出していた。19世紀末イギリスの人類学者ジェームズフレイザーが著した『金枝篇』である。

     私が特に注目したのはフレイザーが叙述している「栽培植物」にまつわる神話や儀礼である。植物の栽培には必ずその植物の精霊を祭祀する呪術的な儀礼が伴うことを、彼は古今東西の事例をあげて指摘している。

    「野生の思考」を生きる人びとにとって、植物を適当に植えるということはあり得ない。播種(はしゅ)が行われるのは単なる畑ではなく、植物霊が集う聖地だからである。一粒の小さな種が発芽し、伸長し、何倍もの数の種を実らせるのはまさに奇跡であって、精霊(生命力)の力と守護がなければ絶対に成就しない事業である。それゆえ播種にあたっては、植物の順調な活着と成長を精霊に祈願してさまざまな呪術的儀礼が行われる。

     古代人や未開人は「自然のままに」暮らしているという誤解が広まっているが、事実はまったく逆である。かれらは呪術によって自然界を自分たちの意のままに操作しようと試みる。今日われわれが科学技術によって行おうとしていることを、かれらは呪術によって実践するのである。

     呪術が科学技術より優先する社会において重要なのは、儀礼を通じて、自分たちが資源利用する植物の精霊と円滑なコミュニケーションをとることである。とりわけその食用植物が自分たちの食生活の中心となっていたり、交換財としての価値が高い場合には、「植えっぱなし採りっぱなし」ということはあり得ない。

     播種の春には歓迎会が開催され、人間界へ来訪する精霊たちをご馳走と歌舞でもてなし(予祝儀礼)、収穫の秋にはふたたび宴席を設けて当該シーズンの精霊の事業を顕彰し(収穫儀礼)、翌年の来訪を約束して盛大な送別会が行われる。

     こうしたことからも、「植物を成長させる精霊」という観念と「それを祭祀する儀礼」という事象が、植物栽培によって生命を繫いできたわれらホモ・サピエンスにとっていかに普遍的なものであるかがわかるだろう。フレイザーの『金枝篇』は、こうした植物霊祭祀の慣習と心性が、食用植物を重点的に資源利用するほぼすべての文化においてみられることを明らかにした人類学の古典なのである。

    植物食依存はすでに縄文中期から

     かつての通説では、縄文文化から弥生文化への移行の説明として、「狩猟採集の縄文時代」から「水田稲作の弥生時代」へ(「肉食中心」から「植物食中心」へ、「採集」から「栽培」へ)シフトしたと説明されることがもっぱらであった。ところが、近年の考古研究の進展によって、この図式が不正確であったことがすでに判明している。

     縄文遺跡の発掘数の増加だけでなく、花粉分析やプラントオパール(植物珪酸体)分析、土器圧痕レプリカ法、デンプン分析、種実分析といった、電子顕微鏡を用いた理化学的な植物遺体の検出・同定技術の向上、さらには縄文人骨のコラーゲン分析の結果などによって、北海道を除く東日本では、すでに縄文中期(およそ5500年前)あたりから、縄文人が従来の想定よりもはるかに植物食に依存していた実態が浮かび上がってきたのだ。

     しかもかれらは単なる採集(gathering)だけでなく、ヒエなどの野生種の栽培化(domestication)、里山でのクリ林やトチノキ林などの管理(management)、マメ類の栽培(cultivation)などを行っていたことも判明しつつある。

     さて、そうなると一つの重大な疑問が湧き上がってくる。

     縄文時代にはすでに広範な食用植物の資源利用が存在していた。しかも地域によっては、トチノミなどの堅果類を“主食級”に利用していた社会集団があったこともすでに判明している。ということは、そうした植物利用にともなう儀礼が行われていたことは間違いないのであるが、なぜか縄文遺跡からは植物霊祭祀が継続的に行われた痕跡がまったくといっていいほど発見されていないのである。一方、それとは対照的に、動物霊の祭祀を行ったと思われる痕跡は多数見つかっている。

     ではなぜ、最重要と思われる植物霊祭祀の痕跡は見つかっていないのだろうか。

    「植物霊祭祀の痕跡が見つかっていない」のではなく、本当はすでに見つかっているのに、われわれがそれに気づいていないだけだとしたらどうだろうか。

     実はこれこそが私の見解なのだ。

     つまり、「縄文遺跡からはすでに大量の植物霊祭祀の痕跡が発見されており、それは土偶に他ならない」というのが私のシナリオである。このように考えれば、そしてこのように考えることによってのみ、縄文時代の遺跡から植物霊祭祀の痕跡が発見されないという矛盾が解消される。

     後編では9種類の土偶タイプについて行った、解読作業の具体例を紹介する。(4月25日公開)

    ※『土偶を読む』刊行記念トークイベントのお知らせ
    2021年5月12日 19:00
    竹倉史人 × 武富健治、司会 = 堀内大助
    https://genron-cafe.jp/event/20210512/

    [もっと知りたい!続けてお読みください →]  本能寺の変、死を覚悟した信長がとった最期の行動

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    青森県亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶(重要文化財・東京国立博物館所蔵)


    (出典 news.nicovideo.jp)

    「宇宙人に見える」のはわたくしだけでしょうか?

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    努力は報われる?

    努力は報われる?

    努力は必ず報われるか?」という質問にどう答えるか。おそらく、努力が報われた経験を多く持つ人は「はい」と答え、絶対に報われたい場面で努力に裏切られた経験を持つ人は「いいえ」と答えるのではないだろうか。

    神奈川県の40代女性は「努力が報われない人のほうが多いはず。努力が報われた人は『ラッキーなだけ!報われて良かったね』といつも思う」と綴り、

    スポーツ選手の『練習は裏切らない』という台詞も嫌い!血ヘドを吐くほど努力している人は山ほどいるけど、大半は報われないから。努力が報われる選ばれし者は、ある意味、才能!みんながみんな報われるなら、誰も不幸にはなっていないはず」

    と切実な胸の内を明かしている。(文:大渕ともみ)

    受験に失敗した女性「必死に頑張っても目標を達成できないことはあります」

    20代の女性は「必死に頑張っても目標を達成できないことはあります」と語る。なぜなら受験に失敗し、滑り止めの大学に進学した経験を持つからだ。「悔しい思いで大学生活を過ごしました」というが、振り返ってみると悪いことばかりではなかった。女性は

    「そこで何ができるかを考えながら必死に勉強をしたので、首席で卒業できました。結果的に、その大学に来てよかったと思います」

    と打ち明ける。さらに、「受験に失敗したからこそ、今の自分がある」といい、「努力は後悔しない人生を送るための、一つの行動に過ぎないと思います。報われるというよりも、次のステップのための通過点」と持論を述べた。

    「まずは『努力をしないと始まらない』という思いで、4月からの新社会人生活も頑張りたいと思います」

    と力強く決意を述べる女性。”努力は必ず報われると信じる人”は、”報われるまで努力を続けられる人”なのかもしれない。

    「努力は成功を保証しませんが、最低限、必要な条件です」

    奈良県の50代男性は「努力は成功を保証しませんが、最低限、必要な条件です」と主張する。また、「努力は量よりも方向のほうが大事です」とも付け加えた。

    「努力しても伸びない場合には、量を増やすだけの”安易な努力”をしているのではないでしょうか。私は治療院を経営しています。以前、『努力しても伸びない』という剣道の選手がいらっしゃいました。彼は素振りの回数を増やすばかりで、今までやっていたことを変えず、努力の量を増やしているだけだったのです」

    そこで、男性が「いろいろな振り方を試す」「動画で相手の動きを研究する」など努力の方向性を提案したところ、選手は「伸び始めた!」と喜んだという。

    「私自身、開業初期は『腕を上げる』ことだけに集中していて、経営がうまくいきませんでした。マーケティングや心理学など、幅広い知識を得る努力をしてから、経営が回るようになっていきました。報われたいのなら、視界を広げ、しっかり考える方向での努力が欠かせないと思います」

    努力が報われる人は”量”にこだわらず、さまざまなやり方で試行錯誤を繰り返す傾向にあるようだ。

    ※キャリコネニュースでは引き続き
    【緊急アンケート】「努力は必ず報われる」?のほか「不労所得がある人」「モンスター新人目撃談」などのアンケートを募集しています。

    「努力は必ず報われる」は本当なのか 「“練習は裏切らない”という言葉が嫌い」「努力の量よりも方向が大事」などの声


    (出典 news.nicovideo.jp)

    努力が報われなかったと思う人は、努力が足りなかっただけかも。

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     駅のホーム上から「時刻表」が撤去されはじめていることをご存じでしょうか。

    【画像】これまであったはずの時刻表がスッキリなくなり「白地」になっていた様子

     これから来る電車の到着時刻を確かめようとホームの案内看板を見たところ、あれれ? これまであったはずの時刻表がなくなっていました。その代わりに、ここで時刻表や運行情報を確認できますと説明されたポスターが張られていました。

     JR東日本2019年3月ごろから、JR西日本2020年3月ごろから、一部の駅のホーム上から時刻表を撤去しています。JR東海2021年3月ごろから、名古屋地区で駅ホーム上の時刻表を撤去しはじめました。

     これはなぜでしょう。

     JR東海によると「駅のホーム上に“発車標”を設置済みの駅では、発車標で直近の発車時刻や列車種別・行き先などを確認できるため」にホーム上の時刻表の掲出は取りやめることにしたといいます。

     ホーム上の時刻表を撤去した場所では、時刻表や列車運行情報を確認できる鉄道会社公式WebサイトやアプリQRコード付き案内を記載したポスターを掲示。より詳しい情報を確認したい乗客に向けたサービス環境も整えています。

     なお、ホーム上の時刻表はなくなってきていますが、改札口付近には引き続き時刻表を掲出します。

     このほか、「紙の時刻表(名刺サイズのポケット時刻表)」の配布についても、小田急電鉄JR九州西日本鉄道(西鉄)などが既に廃止しています。名古屋鉄道(名鉄)や南海電鉄も、今後行われるダイヤ改正を反映した時刻表の配布は行わないことを告知しています。

     ついでに航空業界でも、全日本空輸ANA)が2021年1月31日に紙の時刻表を廃止、日本航空JAL)も2021年3月27日に国際線分を廃止。5月31日には国内線分も廃止するとしています。

     鉄道も航空もバスも、発車時刻や便名、乗り換え案内、経路などまで、昨今は確かに手元のスマホでサッと調べられます。スマホが使えない方、あるいはスマホを忘れたとしても、列車時刻の確認においては発車標で大抵は事足ります。

     でも、「パッと調べられないのはやっぱり不便だと思う」といった声も上がっています。紙の時刻表が完全になくなるのもファンとして何だか寂しい気がします。他事業者の動向も気になるところですが、やっぱり減っていくのでしょうかね……。

    (大泉勝彦)

    【訂正 2021年4月22日20時】初出時、航空会社時刻表記述の一部に誤記がありました。正しくは上記の通りです。お詫びして訂正いたします。

    駅のホームから「時刻表」がなくなっていた……


    (出典 news.nicovideo.jp)

    時代が変わればですが、不便を感じる人もいるのでは?

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    小児科

    音読み訓読みの他にも、地名や人名など固有名詞によっては特殊な読み方をするものもあり、奥深くて難しい「漢字」。しらべぇ編集部が行なった調査の中でも、日常生活でよく目にするものであっても、誤読した経験のある人が少なくなかった言葉があった。


    ■小児科を「こじか」と誤読

    しらべぇ編集部が全国の20代~60代の男女1,363名を対象に「漢字を誤読してしまった経験」に関する意識調査を実施したところ、全体で9.0%の人が「『小児科』を『こじか』と誤読した経験がある」と回答する結果に。

    「小児科を『こじか』と誤読した経験」調査

    およそ1割、11人に1人という人が、とくに難しい漢字は使われていない「小児科」を「こじか」と誤読してしまった経験があるという。


    関連記事:新型コロナ感染で母乳が黄緑色に? 専門家は「体内で作られる抗体の影響」

    ■ネットでも“失敗談”がチラホラ

    思わず「こじか」と読んでいた人は決して少ないよう。

    インターネット上でも「ほんっとに、『小児科』って『こじか』って読んじゃう」「中二まで『小児科』を『こじか』って読んでた」「子供の頃、『小児科』を『こじか』だと思ってて、『しょうにか』は別の科として存在するのだと思ってた」と、子供の頃は「こじか」だと思っていたというユーザーからのつぶやきが多数見受けられた。

    中には「こじかって読むやん…」とツッコミを入れる人まで。確かに「こじか」とも読めるので、気持ちは分かる…!


    ■「歯科」も難読?

    しらべぇ編集部に体験談を寄せてくれた方の中には、「小児科」ではなく「歯科」を誤読していたという人物も。20代Aさんは「中学に上がるまで、『歯科』をずっと『はか』と読んでいた」とカミングアウト

    「小学5年生のときに引っ越しして転校したんですが、引っ越し先にやたら『歯科』が多くて。まだ子供だったし、とくにお世話になることもなかったので、駅まで行くバスに乗ると、『歯科』の看板を見ては『はか…』と心の中で呟いていました。今となっては超恥ずかしい」と語ってくれた。

    いずれも、日本語の難しさを物語るエピソードと言えるだろう。

    ・合わせて読みたい→「彼はヒーロー」と7万人が署名するも… 小児性愛者を死なせた男に15年の禁錮刑か

    (取材・文/しらべぇ編集部・衣笠 あい

    【調査概要】 方法:インターネットリサーチ「Qzoo」 調査期間:2017年2月24日2017年2月27日
    対象:全国20~60代の男女1363名(有効回答数)

    『小児科』本当は何と読む? 11人に1人が“誤読”していたと判明…


    (出典 news.nicovideo.jp)

    鹿の子供が行くところ?

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